先週土曜日の朝方、まちあるきの受付に早めに着いたのでご近所を散策しました。大門南方(大門町は国道406号線を境に「大門上」と「大門南方」とに分かれている)にある熊野神社では、毎年8月17日に行われる秋季例大祭が今年も行われた模様です。
ほころびやすい旗の角。補強のための縫い目模様がきれいでした。
うまく表現できませんが、なんかかっこいい。
週刊長野のアーカイブ記事を読んで初めて知ったのですが、この熊野神社のお祭りは長野市内の秋祭りのなかでもトップバッターらしいです。そして祀られている熊野権現さまは「オールマイティーな神様」なのだとか。
週刊長野は信濃毎日新聞の土曜折込に入っている長野市内、飯綱町、信濃町、小川村限定配布の無料新聞なのですが、まちのことに関する情報量がはんぱなくてとても勉強になります。今回の記事は、徳武康彰さんの「足もと歴史散歩」を参考にさせていただきました。
※上記の文中にリンクを貼りましたが、リンク切れになったらもったいないので以下、「週刊長野記事アーカイブ」より引用
長野市内で秋祭のトップバッターを務めるのが大門町の熊野神社だ。お盆が終わると翌日の8月17日、地元の氏神さんとして、今年も神主のお祓いが行われた。
神楽も踊りも獅子舞もない。神事の後は、町内一同そろって直会(なおらい)をする。健康や商売の弥栄(いやさか)を祈り、絆を深める…。文字どおり、氏子信仰の原形のようだ。
善光寺の参道西側に面しているが、間口2メートル弱で境内もないので見逃してしまう人が大半だ。気が付いても「なぜ、お寺さんの参道に熊野が…」と首をかしげる人が多い。
全国で一番多いのが諏訪神社で6000社以上。熊野をルーツとする神社も3000社以上といわれる。「熊野に縁ある」と伝承される小さな祠や樹木、巨石、珍石などを数えれば何万という数になるはずだ。
古絵図を見ると、かつて諏訪社と熊野社は善光寺の境内にあった。熊野の「浄土信仰」が室町時代以降、善光寺街に波及していた名残だろう。熊野修験者や熊野比丘尼(尼・芸人)が門前を闊歩していたとうかがえる。
「この神社の御利益は何ですか」
「熊野権現さまですよ。オールマイティー、なんでもOKですわ」
北隣の薬局・永寿屋さんの母堂・北沢登志子さんの答えだ。
「軒下の組物彫刻は左甚五郎の作といわれています。旧社殿から移したもの。社殿の下には”神護石”が埋まっていますから、祈ればなんでも成就します」
「して、その石とはどんなもの?」
「社殿は以前、西南裏の鐘鋳(かない)川の淵に鎮座していたのですが、1962(昭和37)年、長野信用金庫の本店(現大門町支店)を拡張するために、今の場所にお移ししたのです。その際、ご覧になった方も多くは鬼籍に入られて…。石が金剛石か瑪瑙(めのう)石か、私は拝見していませんが、当時の神職さんはきっと目撃しているはず」
熊野神社を門衛のように抱えているのが長野信金だ。この地の古い旅館建物を店舗にして、創業したのは23(大正12)年9月1日。なんと関東大震災の当日だ。それから幾星霜。昭和の大恐慌、第2次大戦、戦後の経済混乱、景気の盛衰を乗り越えて、県内庶民金融の雄に発展した。
大揺れのなかで誕生したから、多少の転変にはびくともしない堅実さを誇る。神護石の御利益はまざまざというところか。
(2011年8月27日号掲載)
熊野神社